思考のメモ。https://note.com/miyakenomiへ移転。

仕事としてお笑いをやることについて。

好きなのでやってしまうがそろそろお笑いのことはこの辺にしておきたい。

 

賞レースのオーディションに際して、エントリーする芸人、審査する作家や番組関係者、鑑賞する客がいる。

この中で仕事としてお笑いをやっていないのは客だけだ。そして私もその客の1人に属する。

 

賞レースにおいて、しばしばネタ選びがどうとかなんでここが勝ち残っているのとか、そういうくだらない話題が客の周りで巻き起こることがある。

私自身も以前の準決勝レポにて囲碁将棋のネタが〜〜などと記述する場面があった。

期待を込めてという意味が100%のつもりだけど、とはいえやっぱりどこか、エゴなのだ。

 

初めて賞レースの決勝以前の予選を通しで見て、審査員の紹介からMCのまわし、会場の雰囲気を見ることができた。

そこにいる客以外の全員は自身の仕事を全うしていたと知ったし、会場が一体になっているようで、実は供給者と消費者の間に決定的な違いがあった。

 

審査員はひとつの大きな番組・企画を最も良いものにするために、その瞬間その会場から最も相応しい9組を選ぶ。芸人も自分の軸を考えながらも、その番組・企画に相応しいと認められるよう試行錯誤する。ただ面白いことをすればいいけどただ面白いことをするだけではいけない。答えもないし幅も広いし、何が正解かわからない中でこれだと決めたものを迷いなく(あたかも迷いがないかのように)実行する。

 

私たち消費者はそれがどこ産の材料でどんな人の手で作られたのかも知らないまま、出されたメシをウマイだマズイだ言っているだけ。

それを「応援している」と言えるのだろうか。

 

もちろんお笑いを見て楽しんで笑う権利は誰にでも平等にあるものだし、見て面白けりゃなんでもいい。でも私にはエラそうにできるほどの鑑賞力は全く備わっていないといつも実感する。